映水BLOG

2020.7.30 / コラム

徳川家康と岡崎のつながりを歴史解説!生誕からゆかりある寺院まで

誰もが知っている歴史上の人物である徳川家康。

愛知県岡崎市は、徳川家康の生誕の地として知られています。

こちらでは、

生誕から家康と名乗るまで
三河一向一揆平定から三河国統一まで
浜松城の家康と岡崎城の信康
岡崎市内にある家康所縁の寺院

についてまとめています。

生誕から家康と名乗るまで

徳川家康は1542年、三河国(現在の愛知県東部)岡崎城にて誕生。幼名は竹千代である。父は松平広忠、母は刈谷城主水野信元の妹の於大の方である。

家康が誕生した当時の三河国は、西からは織田信長の父である織田信秀、東は駿河・遠江(現在の伊豆半島を除いた静岡県)守護の今川義元といった、強大な勢力に挟まれていた。

1547年、信秀は岡崎城を攻略、この時、竹千代は信秀のもとに送られる。
一方、広忠は今川氏の援助を得て、1549年の小豆坂の戦いで織田勢を退けた。
広忠の跡を継いだ竹千代を織田勢から取り戻すべく、今川勢は安祥城を攻略、信長の兄信広との交換で今川氏のもとへ赴くことになる

1555年、竹千代は元服し、今川義元から一字を貰い受け、松平元信と名乗る。
元信による最初の文書は、岡崎市にある高隆寺に寺領を保証したものである。

1556年、今川義元の姪築山殿と婚姻、それにより今川氏の親類衆となる。

1558年、名前を元康に改める。これは、祖父清康の一字を用いたものと言われている。
同年、初陣を果たす。
元康は今川氏の保護を受けながら、駿河から岡崎領国経営にあたっていた。

1560年、今川義元は自ら大軍を率いて三河国に侵攻する。元康は今川氏の将として、大高城に兵粮を入れた後、織田方の砦を攻め落とす活躍を見せる。
しかし、義元は桶狭間山で休息中、織田信秀の跡を継いだ信長に強襲を受け、今川本隊は壊滅、義元も散った。
それを受け、元康は松平氏の本城である岡崎城に入り、今川氏の保護を受けることができない状態の中、再出発することになる。

1561年、水野信元の仲介で信長と和睦、西からの脅威を受けなくなる。

1563年、今川義元から送られた元の字を排し、実名を家康と改める。

三河一向一揆平定から三河国統一まで

西三河には浄土真宗(一向宗)の門徒が多く、本願寺の一族寺院である土呂本宗寺(岡崎市)を頂点とし、三か寺と呼ばれた、佐々木上宮寺・針崎勝鬘寺(以上岡崎市)・野寺本證寺(安城市)を中心として本願寺教団が隆盛していた。

『三河物語』や『松平記』という史料によると、1563年、家康の家臣が上宮寺から兵糧を強制徴収しようとして紛争が起き、西三河の本願寺教団存続のために蜂起した。
これを三河一向一揆という。

一揆勢は家康の政策に反対する勢力と結び付いて家康と戦闘を続けたが、水野信元との仲介で和睦した。
家康は先の寺院に宗旨替えを求めるも、本宗寺などは応じず、寺院を破却、僧侶を国外追放とした。

また、後に家康の重臣となる本多正信も一揆方に付いたため、この時追放されている。
本多忠勝は家康に付いて戦った。

この戦いを経て、三河国では浄土真宗本願寺派の活動は禁止され、家康の立場は確固たるものになった。

1566年には三河国をほぼ平定、その立場を公認化するため、朝廷に徳川への改姓を願い出て認められ、ここに徳川家康が誕生した

浜松城の家康と岡崎城の信康


岡崎城

1570年、家康は浜松城を築いて移ったため、岡崎城には嫡男松平信康が入り、城主となった。
記録上、信康が「徳川信康」と名乗ったことはない。
信康は家康から付けられた平岩親吉らの家臣団とともに三河国の統治を進めていた。

1575年、岡崎において大事件が勃発する。
信康の家臣であり、岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎らの一派が武田信玄の後継者勝頼と内通し、武田軍を岡崎城に引き入れようとした「大岡弥四郎事件」である。
家康の正妻築山殿も関与していたと伝わる。

事件自体は事前に発覚し、未然に防がれ、岡崎城に向かうはずだった武田軍は矛先を長篠城に向け、それを救援しに向かった織田・徳川連合軍と激突したのが長篠合戦である。

背景には、家康を中心とした、信長との同盟を継続し、武田氏と戦いを継続する派閥と、それを見直して武田氏と結ぼうとする、岡崎城の信康の周辺との間で政治的対立があったとされている。

1579年、その対立から家康は信康を岡崎城から退去させる。これを信康事件という。
その後岡崎城には家康の家臣である、石川数正が岡崎城代として入っている。

本能寺の変から関ヶ原の戦いまで

1582年6月、本能寺の変が勃発する。

当時、家康は信長の勧めで堺を見学するところであったが、変を知り、明智光秀の追っ手を避けつつ、いわゆる「神君伊賀越え」を敢行し、岡崎城まで逃げ延びている。

その後家康は北条氏・上杉氏と武田氏旧領を巡る動乱「天正壬午の乱」を戦い抜き、結果三河・信濃・遠江・駿河、そして甲斐国を領有するまでになる。

1590年、家康が豊臣秀吉の命で関東地方に移動することになり、秀吉の家臣である、田中吉政が岡崎城主となる。

1600年の関ヶ原の戦い後は、家康家臣の本多康重が岡崎城主となった。

江戸時代を通じ、家康誕生の城として重要視され、譜代大名が歴代城主となっていった。

岡崎市内にある家康所縁の寺院

ここで、家康に所縁のある岡崎市内の神社仏閣をいくつかご紹介します。


大樹寺 ビスタライン

まずは鴨田町にある大樹寺である。
1475年に開かれ、松平家・徳川将軍家の菩提寺とされている。
松平8代の墓、歴代将軍の位牌、家康像が祀られている。
大樹寺と岡崎城を結ぶ約3キロの直線は「ビスタライン」と呼ばれ、それを妨げるような建築物を建てることはできない。
約370年間守られてきた眺望である。


松應寺

次に松本町にある松應寺である。
1560年、家康が父広忠のために創建。
1612年には大御所と呼ばれるようになった家康が大坂に向かう途中に参拝、1623年には2代将軍秀忠、その後継者でのちの3代将軍家光も上洛の途中で参拝している。
1633年には家光が大造営を行なっている。

家康が大きな合戦の前には必ず参詣したと伝わり、現在でも家康行列の出発点である伊賀町にある伊賀八幡宮もある。

他にも、家康が幼少期に手習いや学問に励み、桶狭間の戦い後に家康から優遇された本宿町にある法蔵寺、家康が祖父の清康の菩提を弔うために創建された門前町の隨念寺などがある。

新時代と家康

令和元年11月2日、乙川リバーフロント地区整備事業の一環として、徳川家康像が完成。
名古屋鉄道東岡崎駅前に作られ、岡崎市の新たなシンボルとなっている。

まとめ

天下泰平のいしずえを築いた徳川家康は、岡崎市の岡崎城で生まれました。

徳川家康と関係の深い岡崎市には、ゆかりのスポットもたくさんあります。

落ち着いた岡崎の町におでかけしてみませんか。

お子様が徳川家康の五月人形に!職人が伝統工芸で作る人気の大将飾り

登録タグ#

雛人形・五月人形・市松人形無料配達地域
(飾りつけもさせていただきます。)

お電話でご相談
0564-21-4543

10:00~19:00(無休)
5〜12月は10:00~18:00
(毎週水曜日、第3火曜日定休)

メールでご相談

お人形に対するご質問や、ご注文方法など、
お気軽にお問合せください。

よくあるご質問

皆様から、よく頂戴するご質問を、
紹介いたします。

オーダー雛人形 木目込み雛人形 衣裳着雛人形 似顔お子様大将 五月人形 五月人形 鎧飾り 兜飾り 鯉のぼり 似顔お子様 市松人形 桐塑市松人形 裸 市松人形 木目込み人形・その他 ギャラリー お客様の声 人形師 映水 伝統工芸 店舗紹介(ショールーム) カタログ請求 三代目 映水BLOG