徳川家康と岡崎のつながりを歴史解説!生誕からゆかりある寺院まで
誰もが知っている歴史上の人物である徳川家康。
愛知県岡崎市は、徳川家康の生誕の地として知られています。
こちらでは、
・生誕から家康と名乗るまで
・三河一向一揆平定から三河国統一まで
・浜松城の家康と岡崎城の信康
・岡崎市内にある家康所縁の寺院
についてまとめています。
生誕から家康と名乗るまで
徳川家康は1542年、三河国(現在の愛知県東部)岡崎城にて誕
家康が誕生した当時の三河国は、西からは織田信長の父である織田
1547年、信秀は岡崎城を攻略、この時、竹千代は信秀のもとに
一方、広忠は今川氏の援助を得て、1549年の小豆坂の戦いで織
広忠の跡を継いだ竹千代を織田勢から取り戻すべく、今川勢は安祥
1555年、竹千代は元服し、今川義元から一字を貰い受け、松平
元信による最初の文書は、岡崎市にある高隆寺に寺領を保証したも
1556年、今川義元の姪築山殿と婚姻、それにより今川氏の親類
1558年、名前を元康に改める。これは、祖父清康の一字を用い
同年、初陣を果たす。
元康は今川氏の保護を受けながら、駿河から岡崎領国経営にあたっ
1560年、今川義元は自ら大軍を率いて三河国に侵攻する。元康は今川氏の将として、大高城に兵粮を入れた後、織田方の砦を
しかし、義元は桶狭間山で休息中、織田信秀の跡を継いだ信長に強
それを受け、元康は松平氏の本城である岡崎城に入り、今川氏の保
1561年、水野信元の仲介で信長と和睦、西からの脅威を受けな
1563年、今川義元から送られた元の字を排し、実名を家康と改
三河一向一揆平定から三河国統一まで
西三河には浄土真宗(一向宗)の門徒が多く、本願寺の一族寺院で
『三河物語』や『松平記』という史料によると、1563年、家康
これを三河一向一揆という。
一揆勢は家康の政策に反対する勢力と結び付いて家康と戦闘を続け
家康は先の寺院に宗旨替えを求めるも、本宗寺などは応じず、寺院
また、後に家康の重臣となる本多正信も一揆方に付いたため、この
本多忠勝は家康に付いて戦った。
この戦いを経て、三河国では浄土真宗本願寺派の活動は禁止され、
1566年には三河国をほぼ平定、その立場を公認化するため、朝
浜松城の家康と岡崎城の信康
岡崎城
1570年、家康は浜松城を築いて移ったため、岡崎城には嫡男松
記録上、信康が「徳川信康」と名乗ったことはない。
信康は家康から付けられた平岩親吉らの家臣団とともに三河国の統
1575年、岡崎において大事件が勃発する。
信康の家臣であり、岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎らの一派が
家康の正妻築山殿も関与していたと伝わる。
事件自体は事前に発覚し、未然に防がれ、岡崎城に向かうはずだっ
背景には、家康を中心とした、信長との同盟を継続し、武田氏と戦
1579年、その対立から家康は信康を岡崎城から退去させる。こ
その後岡崎城には家康の家臣である、石川数正が岡崎城代として入
本能寺の変から関ヶ原の戦いまで
1582年6月、本能寺の変が勃発する。
当時、家康は信長の勧めで堺を見学するところであったが、変を知
その後家康は北条氏・上杉氏と武田氏旧領を巡る動乱「天正壬午の
1590年、家康が豊臣秀吉の命で関東地方に移動することになり
1600年の関ヶ原の戦い後は、家康家臣の本多康重が岡崎城主と
江戸時代を通じ、家康誕生の城として重要視され、譜代大名が歴代
岡崎市内にある家康所縁の寺院
ここで、家康に所縁のある岡崎市内の神社仏閣をいくつかご紹介します。
大樹寺 ビスタライン
まずは鴨田町にある大樹寺である。
1475年に開かれ、松平家・徳川将軍家の菩提寺とされている。
松平8代の墓、歴代将軍の位牌、家康像が祀られている。
大樹寺と岡崎城を結ぶ約3キロの直線は「ビスタライン」と呼ばれ
約370年間守られてきた眺望である。
松應寺
次に松本町にある松應寺である。
1560年、家康が父広忠のために創建。
1612年には大御所と呼ばれるようになった家康が大坂に向かう
1633年には家光が大造営を行なっている。
家康が大きな合戦の前には必ず参詣したと伝わり、現在でも家康行
他にも、家康が幼少期に手習いや学問に励み、桶狭間の戦い後に家
新時代と家康
令和元年11月2日、乙川リバーフロント地区整備事業の一環とし
名古屋鉄道東岡崎駅前に作られ、岡崎市の新たなシンボルとなって
まとめ
天下泰平のいしずえを築いた徳川家康は、岡崎市の岡崎城で生まれました。
徳川家康と関係の深い岡崎市には、ゆかりのスポットもたくさんあります。
落ち着いた岡崎の町におでかけしてみませんか。
- 投稿日時:2020.7.30 12.29.46 / カテゴリー:コラム
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