映水BLOG

2020.8.1 / 五月人形

お子様に似せてつくる上杉謙信の五月人形!衣装も選べる子供大将!

「強くたくましく、健やかに育ってほしい」という家族の願いが込められた五月人形。素敵な五月人形と一緒に、端午の節句を迎えたいですね。

五月人形には、鎧や兜の他にも、かわいい大将飾りもあります。

こちらでは、お子様のお顔に似せてつくるオーダーメイドのかわいい上杉謙信の大将飾りと、上杉謙信の詳しい歴史解説も一緒に紹介しています。

上杉謙信のオーダーメイド子供大将

上杉謙信の子供大将のお顔は、熟練の職人が江戸時代からの伝統工芸で一つ一つ制作させて頂きます。

衣装のデザインも色々な種類の中からお選びいただけます。

台や屏風、お道具も色々と組み合わせ、オンリーワンの五月人形をご提案いたします。

オーダーメイド五月人形のことを詳しく知りたい方は「味岡人形 オーダーメイド五月人形」をご覧ください。

上杉謙信の似顔馬乗り大将


上杉謙信の馬乗り大将 「白」 伝統工芸 桐塑頭

横幅:約66センチ
奥行:約43センチ
高さ:約60センチ

馬乗り大将本体の大きさは、白と黒どちらも高さ約50センチと立派なお人形です。

上杉謙信の馬乗り大将 「黒」 伝統工芸 桐塑頭

職人が、馬乗り大将のお顔をお子様に似せて一つ一つ丁寧に制作いたします。

馬は、「白色」と「黒色」からお選びいただけます。

台や屏風、お名前の旗や鯉のぼりなどのお道具も組み合わせてお選びいただけます。

かわいいお子様が「太陽」と「月」の兜を身に着け、かっこいい鎧を着た上杉謙信の五月人形になります。

職人が、伝統工芸で制作する世界に一つの馬乗り大将です。

上杉謙信の似顔子供大将


上杉謙信 子供大将飾り 伝統工芸 桐塑頭

横幅:約55センチ
奥行:約33センチ
高さ:約37.5センチ

かわいい子供大将のお顔も、お子様に似せて制作させていただきます。

かっこいい上杉謙信の似顔子供大将は、衣装のデザインもお選びいただけます。

台や屏風、お名前の旗や鯉のぼりも色々な種類から組み合わることができます。

シンボルの「太陽」と「月」の兜を身につけ、かわいいお子様が上杉謙信の五月人形になります。

職人が、伝統工芸でお届けする世界に一つの子供大将です。

上杉謙信を歴史解説

上杉謙信(1530〜1578)

越後国(現在の新潟県)の守護代、長尾為景の二男として誕生。
名乗りは長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→上杉謙信と変化する。
はじめは僧になるため、寺に入っていたが、為景の跡を継いだ兄晴景の命で還俗(僧侶から俗人に戻ること)し、栃尾城に入城した。
この頃の名前は長尾景虎といった。

反乱勢力との戦いで評価を上げ、1548年、病弱だった晴景の跡を継ぎ、長尾家当主となる。若い頃から並外れた才能を発揮していたようである。

越後の守護は越後上杉家であり、長尾家は守護代家であったが、1550年、越後上杉家が断絶、景虎が事実上の国主となる。

景虎は自らの地位を固めるため、室町幕府将軍と関係を持ち、本来守護クラスが使用できる白傘袋(しろかさぶくろ)などの使用許可を得て高い格式と国を統治する足掛かりを得た。

1553年、信濃国(現在の長野県)から、武田信玄の圧迫を受けた村上義清らが景虎に助けを求めてきた。

上杉謙信はよく「義の武将」と言われ、自分の欲のために戦っていたわけではない、とされているが、村上義清らからの救援依頼に関しては、本拠地春日山城から信濃国北部は近距離であり、信玄から本拠地を守るために戦いに赴いた、というのが実態のようである。

その後、武田信玄とは川中島周辺で5回に渡る合戦を繰り広げることになる。
第一回目の戦いでは、長尾軍は八幡で武田軍を破り、そのまま南下し、現在の長野県松本市にあった虚空蔵山城を陥れるなど、武田領国の奥深くまで攻め込んだ。
その直後、1回目の上洛を果たしている。

1559年には大軍を率いて2度目の上洛を果たし、様々な特権や信濃国の武士に意見する権利を得ることにより、長尾家の家格上昇や信濃国に対する支配の正当性を得た。
また、小田原北条氏の圧迫を受け、景虎を頼ってきた関東管領山内上杉憲政の進退を景虎に任せる、という将軍の書状も得た。

1560年、憲政を奉じて関東に出陣する。
景虎の元には関東の武将が多数参集し、大軍で小田原城を包囲、その後、鎌倉の鶴岡八幡宮にて憲政より山内上杉家の家督を譲られ、上杉政虎」を名乗ることになる。

その後も幾度も関東へ出陣するが、その理由としては、上野国(現在の群馬県)は山内上杉氏の本領であり、その防衛であったとも言われている。
信玄との最大の激戦となった1561年の第4回目の川中島合戦では、政虎自ら太刀を振るって奮戦したという記録がある。
しかしながら、有名な信玄との一騎打ちがあったかどうかは不明である。
同年年末、室町幕府13代将軍足利義輝から一字をもらい、「上杉輝虎」と改名する。

年代は不明だが、陣中に甥の喜平次(謙信の姉の子、後に謙信の養子となって景勝と名乗り、謙信の後継者となる)から手紙が届いたことを喜び、字が上手くなったことに対し、今度お手本を送ります、という内容の手紙を出すという一面も見せている。

1570年頃、出家して謙信を名乗る。
謙信の領国経営の課題の1つが、越中国(現在の富山県)と能登国(現在の石川県)の支配であった。
祖父能景、父為景も越中国へ攻め込んでいるので、父祖以来の悲願であった。

1576年には越中国を支配下に置き、港湾都市である放生津や伏木浜を押さえている。
越後国でも府内の直江津、柏崎といった港湾都市を支配下に置き、流通・経済の活性化を考えるなど、謙信の政策は海を強く意識したものであった。
特に柏崎は江戸時代には日本海海運で活躍した廻船北前船の寄港地であり、その前提として謙信の施策があった。
関東や北陸方面、更には信玄との戦いなど数多くの軍事活動費を賄っていたと思われる。

越中国平定後、能登へ攻め込み、七尾城を攻め、その援軍として駆け付けた織田軍を加賀国(現在の石川県南部)の手取川の戦いで大敗に追い込んだ。
謙信は「織田軍は案外弱く、これなら天下まで進むのも簡単だ」と豪語したと伝わる。

元々謙信と織田信長は友好関係であり、信長の子を謙信に養子入りさせる、という話もあったほどである。
贈り物をし合って関係を深め、打倒信玄を計画していたが、互いに軍事協力ができず、同盟関係は解消されていた。
その一例として、1575年の長篠合戦において、信玄の後継者武田勝頼を破った信長は、これを機に謙信に武田を攻めるよう要請するも、長篠敗戦後に勝頼と和睦していた謙信はそれに応じなかった、ということが挙げられる。
また、謙信が越中から能登へ攻め込み、対して信長は越前国から加賀へ進出しようとして、両者の領土紛争から、敵対関係になったとも言われる。1576年頃のことである。

上杉謙信は、当時最強クラスの武田信玄・北条氏康を相手にして負けらしい負けがほとんど無い辺り、並の武将ではないことは確かである。

兜の特徴的な「日輪」と「三日月」の前立は、上杉謙信が「太陽」と「月」を大切にしていたからだと言われている。

まとめ

上杉謙信の五月人形は、職人がお子様に似せて伝統工芸で一つ一つ丁寧に制作いたします。

かっこいい「日輪」と「三日月」の兜を身に着けたお子様の五月人形には、立派な「馬乗り大将」とかわいい「子供大将」があります。

衣装や台、屏風なども色々と組み合わせ、世界に一つの五月人形をご提案いたします。

職人が、江戸時代からの伝統技術の桐塑胡粉仕上げ(とうそごふんしあげ)で制作する数少ない工房です。

お気軽にお問合せくださいませ。

お子様が徳川家康の五月人形に!職人が伝統工芸で作る人気の大将飾り

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