映水BLOG

2021.3.5 / 五月人形

お子様が武田信玄の五月人形に!職人が伝統工芸で作る大将飾り

大切なお子様が元気で健やかに育ちますように。と家族の願いを込めて飾る五月人形。

五月人形には、鎧や兜飾りの他にもお人形を飾る大将飾りもあります。

大将飾りには、職人が江戸時代からの伝統技術でお子様のお顔に似せてつくる武田信玄のオーダーメイドの似顔子供大将があります。

こちらでは、武田信玄のかわいいお子様大将飾りのご紹介と一緒に、武田信玄についても詳しく歴史解説をしています。

オーダーメイドの似顔子供大将

似顔子供大将のお顔は、江戸時代からの伝統技術の桐塑頭(とうそがしら)により一つ一つ丁寧にお作りいたします。

お顔の素材には、桐の木の粉や貝殻の粉などの天然素材を使用して、胡粉を10数回塗り重ね、目、鼻、口を手彫りで表現することにより世界に一つのお顔をお届けします。

衣装のデザインや台、屏風、お道具も色々な種類の中からお選びいただけます。

職人が制作する世界に一つの五月人形です。

オーダーメイドの五月人形のことを詳しく知りたい方は「味岡人形 オーダーメイド五月人形」をご覧ください。

武田信玄の似顔子供大将


武田信玄 木目込み 大将飾り 伝統工芸 桐塑頭

横幅:60センチ
奥行:35.5センチ
高さ:49センチ

お顔は、職人が伝統工芸の桐塑頭でお子様に似せて一つ一つ丁寧に制作させていただきます。

衣装は、木目込み人形です。色々な布をご用意しておりますので、お好きな色をお選びいただき、職人が制作しお届けします。

武田信玄の兜として有名な「諏訪法性兜」(すわほっしょうのかぶと)を身につけたかわいいお子様大将です。

兜の後ろには、当時貴重とされたヤクの毛が使用されておりましたので、白い毛をイメージした兜となっております。

スタイリッシュな兜によりとてもかわいい武田信玄のお子様大将が表現されています。

武田信玄の似顔馬乗り大将


武田信玄 馬乗り大将 「黒」 伝統工芸 桐塑頭

横幅:約55センチ
奥行:約40センチ
高さ:約55センチ


武田信玄 馬乗り大将 「白」 伝統工芸 桐塑頭

お子様のお顔に似せてつくる五月人形には、立派な馬乗り大将もあります。

馬乗り大将は、白色と黒色の2種類の馬からお選びいただけます。

馬乗り大将のみでシンプルにお飾りいただけるほか、後ろの屏風と一緒に飾る際には、色々な種類をご用意しております。台や鯉のぼりなどを合わせ、さらに豪華に飾ることもできます。

かっこいい武田信玄の兜と、風林火山の軍配(ぐんばい)を身に着け、鎧を着て馬に乗ったたくましいお子様の五月人形です。

伝統工芸で制作された桐塑頭のお顔は、天然素材を使用しているためあたたかさがあり、末永く大切にしていただける作りです。

武田信玄の歴史解説

武田信玄(1521〜1573)

甲斐国(現在の山梨県)の武田信虎の嫡男として誕生。
武田氏は甲斐源氏の棟梁として、基本的には代々甲斐守護職を継承してきた名門で、信玄は第19代目の当主である。
名前は晴信、1559年に出家して信玄と名乗る。

信虎は苦難の末に1531年に甲斐国を統一しており、信虎の活躍は後の信玄の飛躍に欠かせないものであった。

1541年、信虎に代わり甲斐国国主となる。
その後、隣国信濃国(現在の長野県)に打って出ることになる。
その過程で、真田幸綱(真田幸村(信繁)の祖父)を臣従させている。

幸綱の子昌幸は信玄の元に送られ、武田一族の武藤家に養子に入れたり、重臣会議を見学させるなどして後に武田の重臣にするべく教育を施すなど、人材育成に余念がない人物であったとも言える。

昌幸は期待に応え、信玄から「我が両眼の如し」と称されていたという。
幸綱らの活躍もあり、信玄は信濃国の実力者村上義清を圧迫、義清は越後国(現在の新潟県)の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼る。

信玄は北信濃にまで勢力を拡大してきており、景虎の本拠地である春日山城からは至近距離であるため、本国防衛のために信濃国に出陣、川中島近辺で戦いを繰り広げることになる。
特に1561年9月の第4回目の戦いは激戦であったと言われている。

当時は上杉政虎と名乗っていた謙信は自ら太刀を抜いて戦ったという記録があり、信玄と謙信の一騎打ちがあったとも言われている。
しかし、その2か月後には双方とも上野国(現在の群馬県)に出陣しているので、激戦と言われている割には損害が少なかったという見方もされている。

1566年には、出陣中であるにも関わらず2度も北条氏政に嫁いだ娘である黄梅院殿(おうばいいんでん)の安産祈願をするなど、子供を案じる面も見せている。
内政面では、1547年に分国法である「甲州法度之次第」を制定している。
これは、領国内で起こっていた問題に対処するために隣国今川氏の分国法「今川仮名目録」を参考にして作成された。

信玄の業績などをまとめた史料として、『甲陽軍鑑』がある。
合戦のあった年代が異なる、他の良質な史料で実在が確認できない人物が描かれているなど問題は多いが、言葉遣いなどを調査した結果、室町時代の古語がふんだんに使用されていることが明確になり、評価し直されつつある。
一例として、信玄の軍師として有名な山本勘助も登場するが、長い間架空の人物とされていた。しかし、別の一級史料で実在が確認された。

信玄の重臣春日虎綱(一般的には高坂昌信と呼ばれる)が甥の春日惣次郎らの協力で口述筆記により作成され、その後信玄の重臣だった小幡虎盛の弟光盛が入手、編者とされる小幡景憲の手に渡り完成したと伝わる。
光盛は景憲の大叔父である。

『甲陽軍鑑』は江戸時代には甲州流軍学の聖典として広まり、景憲は軍学者としての地位を確立した。
信玄の偉大な足跡や教訓は江戸時代に最高のテキストになった。
信玄自身も江戸時代には「神君」徳川家康を負かした武将として高評価されていた。

家康は武田遺臣を重用し、本能寺の変後の動乱「天正壬午の乱」での戦いを優位に進めた。
天正壬午の乱とは、元々は武田氏の領国であった甲斐国・信濃国を中心とした動乱であり、かつて信玄やその後継者勝頼に仕えていた遺臣たちを活用することは理に叶っている。
代表的な人物としては、真田昌幸と並び「信玄の両眼」と言われた曾根昌世、北条氏の大軍相手に孤軍奮闘した依田信蕃などである。

また、自分の五男松平信吉に武田の名跡を継がせ、存続を図るなど、武田氏を特別視していたことが窺われる。
武田家臣で評価の高い人物を描いた「武田二十四将図」があるが、実は描かれている人物が一度に集まったことはない。
ポルトガル人宣教師で、戦国時代に来日していたルイス・フロイスは信玄について、

・政略に優れ、兵を失わずに戦いに勝つ。
・法衣を好み、戦場に600人の僧を帯同させる
・出家し、毎日仏像を拝む。
・天台宗座主紗門信玄と名乗る。それに対し、織田信長は第六天魔王と称した。
(以上、一部抜粋)

と評している。

実際、信玄は兵を出す前に事前に敵方に調略を仕掛け、弱体化させてから戦をすることも多く、損害を少なくしている。
戦場に600人もの僧を帯同させるのは現実的ではないと思うが、法衣を好むというのは出家したからだと考えられる。
天台座主というのは、天台宗のトップであり、1572年7月には実際に比叡山延暦寺から僧正に任ぜられている。
フロイスの記録は、実際の信玄の特徴や事績をよく表していると思われる。

まとめ

オーダーメイドの武田信玄の五月人形は、職人が江戸時代からの伝統工芸桐塑頭によりお子様に似せて一つ一つ丁寧に制作させていただきます。

お人形の種類には、かわいい「木目込み人形」と「馬乗り大将」の2種類があります。

木目込み人形の衣装は色々な種類の布からお選びいただけます。

馬乗り大将は白色と黒色の2種類の馬からお選びいただけます。

台や屏風も組み合わせて素敵な五月人形をご提案いたします。

職人が制作する世界に一つの五月人形です。

お気軽にお問い合わせくださいませ。

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