映水BLOG

2021.6.6 / 五月人形

お子様が本多忠勝の五月人形に!職人が伝統工芸で作る大将飾り

男の子の誕生を祝い、健やかに育ての願いを込めて飾る五月人形。

五月人形には、お人形を中心に飾る大将飾りも人気があります。

かわいい大将飾りには、職人が江戸時代からの伝統技術でお子様のお顔に似せてつくる本多忠勝のオーダーメイドの似顔子供大将があります。

こちらでは、本多忠勝のかっこいい馬乗り大将とかわいい大将飾りと一緒に、本多忠勝についても詳しく歴史解説をしています。

本多忠勝のオーダーメイドの似顔子供大将

本多忠勝の子供大将は、職人がお子様のお顔に似せてつくる人気の五月人形です。

熟練の職人が、江戸時代からの伝統工芸により、一つ一つ丁寧に制作させていただきます。

お顔だけでなく、衣装のタイプも小さくかわいいお人形から大きな馬乗り大将まで色々な種類の中からお選びいただだけます。

台や屏風、お道具も色々と組み合わせ、世界に一つの五月人形をお届けします。

オーダーメイドの五月人形のことを詳しく知りたい方は「味岡人形 オーダーメイド似顔お子様大将」のページをご覧ください。

本多忠勝の似顔馬乗り大将


本多忠勝の馬乗り大将 伝統工芸 桐塑頭(とうそがしら)

横幅:66センチ
奥行:43センチ
高さ:60センチ

50センチを超える立派な本多忠勝の馬乗り大将は、職人がお子様のお顔に似せて制作させていただきます。

鎧の肩から掛けた数珠には本多忠勝の特別な思いが込められていると言われています。

本多家に伝来するとされる鹿角の脇立が付いたかっこいい兜が特徴的です。

馬乗り大将は、台や屏風などの付属品も色々な種類の中からお選びいただけます。

職人が江戸時代からの伝統工芸により表現する世界に一つの特別な五月人形です。

本多忠勝の似顔子供大将


本多忠勝 子供大将飾り 伝統工芸 桐塑頭

横幅:55センチ
奥行:33センチ
高さ:37センチ

かわいい本多忠勝の子供大将のお顔も職人がお子様に似せて制作させていただきます。

似顔子供大将の衣裳は木目込み人形となっており、色々な布の中からお好きなデザインをお選びいただけます。

台や屏風、弓太刀や名前旗なども自由に組み合わせて、お客様のお好みのセット組をご提案いたします。

職人が江戸時代からの伝統工芸を大切にする世界に一つの子供大将です。

本多忠勝を歴史解説

本多忠勝(1548〜1610)

徳川家康の重臣。通称は平八郎。

現在の岡崎市西蔵前町で誕生。

幼少より家康に仕え、大坂の陣を除く主要な家康の合戦のほとんどに参戦している。

徳川随一の猛将であり、また、徳川四天王の1人でもある。

父は本多忠高だが、戦国時代特有の理由もあり、叔父である忠真に後見されて成長。

後述する武勇から、織田信長は「日本の張飛」「花も実も兼ね備えた勇士」と、豊臣秀吉は「天下第一古今独歩の勇士」と激賞したと言われている。
ちなみに張飛とは、中国の三国志のうちの一国である、蜀の劉備に仕えた猛将である。

1560年代の末頃に部隊の指揮官に引き立てられたとされている

忠勝を有名にしたのは1572年の一言坂の戦いである。
遠江国(現在の静岡県西部)に侵攻した武田軍との戦闘で退却する味方を逃すために危険な役割である殿(しんがり)を務め、何度も反転しながら迎撃、見事一言坂まで退却することに成功した
忠勝は単騎最後尾に立ち、見事な馬さばき槍さばきで敵を寄せ付けず、家康を本陣まで返すことに成功した。

その武勇から、武田方からは

「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭(からのかしら)に本多平八」

と言われたと伝わる。

ちなみに、唐の頭とは、海外から輸入された、ヤクの毛を使用した兜のことで、当時は貴重なものであった。
ヤクの毛は、武田信玄の兜として有名な「諏訪法性兜」(すわほっしょうのかぶと)にも使用されている。

次に家康と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が戦った小牧・長久手の戦いである(1584年)。

忠勝は家康を追う秀吉軍を妨害するために、僅か500の兵で秀吉の大軍に戦いを挑んだ。
しかし、秀吉は少数の忠勝の軍には取り合わない。
両軍は川を挟んで並び進んでいたが、何と忠勝は川に入り、悠然と馬に水を飲ませるという命懸けの挑発をした。
それを見た秀吉は「あの少数で戦えば負けは必至だが、あのような勇者は生かしておくものだ」と涙を流して語ったという。

家康と秀吉の和平後、秀吉は忠勝に対し数々の贈り物をして家臣になるよう誘うも、秀吉の恩に感謝しつつも、家康は譜代の主だからと断ったという。

こうした戦歴は江戸時代の史料で潤色されたものとも言われるが、織田信長研究に必須であり、信頼できる史料である「信長公記」にも忠勝の活躍振りが描かれており、家康のもとで活躍したのは間違いないと思われる。

ここで、忠勝所用の鎧兜について説明したい。
黒糸威二枚胴具足(くろいとおどしにまいどうぐそく)と呼ばれるものであり、代々本多家に伝来した。
兜は鹿角の脇立が付いていることが特徴的であり、長篠の戦い(1575年)を描いた長篠合戦図屏風には、この兜を身に付けて奮戦する忠勝の様子が描かれている。
また、鎧の肩から掛けた金箔押の数珠には、戦いに明け暮れ、生死をくぐり抜けた忠勝の心情が偲ばれている。

ちなみに、忠勝所用の鑓(やり)は日本三名鑓の一つである、「蜻蛉切」(とんぼきり)と呼ばれるものである。

1590年、家康が秀吉の命により関東に移封されると、忠勝は上総国(現在の千葉県北部)の大多喜城に配置された。
その知行高は10万石であり、これは豊臣政権下の大名家臣としては破格のものである。
ちなみに、他の徳川四天王と呼ばれる人物を見ると、井伊直政は上野国(現在の群馬県)箕輪城で12万石、榊原康政は同じく上野国館林城で10万石、酒井忠次の嫡子である家次(忠次自身は1588年に引退)には下総国(現在の千葉県)臼井城で3万石であった。
ちなみに、上杉景勝の重臣であり、後にいわゆる「直江状」を家康に突きつけたことでも有名な直江兼続は最盛期でも6万石である。

忠勝の娘は真田幸村こと信繁の兄である、信幸の正室である。
ちなみに、信繁の正室は石田三成の盟友と言われる大谷吉継の娘であり、このような姻戚関係から、関ヶ原の戦いを前に、信幸・信繁の父である昌幸と信繁は石田方に、信幸は徳川方に付き、どちらが勝利しても真田家が生き残るようにしている。
これを犬伏の別れという。

1600年、石田三成らが挙兵した際、家康は会津の上杉景勝を攻めるために出陣していたが、忠勝は井伊直政とともに、その事態に対処するため、家康が先遣部隊として派遣した福島正則ら豊臣系大名の軍監を務めている。
任務としては、正則らの戦場での働き振りを報告することであった

関ヶ原の戦いの本戦では、忠勝は南宮山に陣を敷いた毛利勢の監視役を務めていたと言われている。

周知の通り、関ヶ原の戦いは家康の勝利に終わり、昌幸・信繁父子は信幸や忠勝の必死の助命嘆願により九度山に配流で済んだ。

関ヶ原の戦い後は、桑名藩の初代藩主となっている。
これは、家康が伏見城や二条城を「天下」の政庁と位置付けて、関東と畿内を往復するようになっており、近江国(現在の滋賀県)佐和山城に置かれた井伊直政とともに関東と畿内を繋ぐ要衝を委ねられ、もし畿内に何か起きた場合は伏見城や二条城に急行させるための措置であったと言われている。

ちなみに、忠勝の後継者となった忠政の正室は家康嫡男の松平信康の二女である妙高院であり、これは家康が忠政に大きな期待を寄せていたことを伺わせる。
さらにこの措置は、忠勝一代で向上させた本多家の家格を婚姻により固定させる狙いもあったようである。
忠政も家康の期待に応えて、大坂夏の陣では全軍の中でも大きな働きを見せている。

以上、戦歴や逸話は全て信じるわけにはいかないだろうが、忠勝の武勇はその後継者忠政の処遇から見ても間違いなく多大であったと言える。

まとめ

本多忠勝の五月人形は、職人がお子様に似せて伝統工芸で一つ一つ表現させていただきます。

かっこいい鹿角の脇立が特徴的な本多忠勝の五月人形には、立派な「馬乗り大将」とかわいい「子供大将」があります。

お子様大将のセットは、衣装や台、屏風、お道具なども色々な種類を組み合わせ、世界に一つの五月人形をご提案いたします。

似顔お子様大将は、全国的にも珍しい江戸時代からの伝統工芸の技術により表現される特別な作品となっております。

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