お子様が毛利元就の五月人形に!職人が伝統工芸で作る子供大将
男の子の誕生を祝い、強くたくましく育ってほしいという家族の願いを込めて飾る五月人形。
5月5日の端午の節句には、素敵な五月人形を飾り、お子様の健やかな成長を見守りたいですね。
五月人形には、鎧飾りや兜飾りの他にもお人形を飾る「大将飾り」も人気を集めています。
大将飾りには、職人が江戸時代からの伝統技術でかわいいお子様のお顔に似せてつくる毛利元就のオーダーメイドの似顔子供大将があります。
こちらでは、毛利元就のかわいい大将飾りと立派な馬乗り大将の紹介と一緒に、毛利元就についても詳しく歴史解説をしています。
オーダーメイドの似顔子供大将
オーダーメイドの似顔子供大将のお顔は、職人がお客様から頂いたお写真を参考にさせていただき、江戸時代からの伝統工芸の桐塑頭(とうそがしら)により一つ一つ制作させていただきます。
伝統の桐塑頭は、桐の木の粉などの材料を使用し、貝殻の粉を膠(にかわ)で溶いた胡粉を10数回塗り重ね、目、鼻、口を彫刻して表現する世界に一つの作品となっております。
衣裳のデザインや、台、お屏風、お道具も色々と組み合わせて、素敵な五月人形をご提案いたします。
天然素材を使用した赤ちゃんにもやさしい五月人形です。
オーダーメイドの五月人形のことを詳しく知りたい方は「味岡人形 オーダーメイド五月人形」をご覧ください。
毛利元就の似顔子供大将
毛利元就 木目込人形 大将飾り 伝統工芸 桐塑頭
横幅:55センチ
奥行:33センチ
高さ:43.5センチ
お顔は、職人が伝統工芸の桐塑頭でお子様に似せて表現させていただきます。
お人形の衣装は、木目込み人形(きめこみにんぎょう)です。色々な種類の布の中からお好きな色をお選びいただき、お客様のご希望に合わせて制作させていただきます。
台やお屏風、お道具も色々な種類の中からお選びいただけます。
セットには、お子様のお名前を入れることもできます。
天然素材を使用した、やさしく、あたたかなお顔と重厚な三鍬形の前立が特徴的な毛利元就のお子様大将です。
職人がお届けする、世界に一つのかわいい五月人形です。
毛利元就の似顔馬乗り大将
毛利元就 馬乗り大将 「白」 伝統工芸 桐塑頭
(馬は、黒色もご用意しております)
横幅:約63センチ
奥行:約40センチ
高さ:約55センチ
毛利元就の馬乗り大将のお顔も、職人が伝統工芸によりお子様に似せて制作させていただきます。
馬乗り大将本体の大きさは、50センチ程となっております。
後ろのお屏風も色々な種類の中からお選びいただけます。
かわいいお子様が三鍬形の前立の兜と、かっこいい鎧を着た、毛利元就の馬乗り大将に変身です。
昔ながらの手づくりのお顔は、10年、20年と経つと味わいも出てきます。
末長く大切にしていただける世界に一つの五月人形です。
毛利元就の歴史解説
毛利元就(1497〜1571)
安芸国(現在の広島県)の国人領主である、毛利弘元の二男として
当時、出雲国(現在の島根県東部)月山富田城を拠点とし、山陰地
1523年、毛利氏は尼子氏に属していたが、当時の当主である甥
1525年、毛利氏は尼子氏と断交、大内氏方となる。
大内氏の援助もあり、元就は着実に勢力を拡大し、大内氏方国衆連
1540年、そうした毛利氏を攻撃すべく、祖父尼子経久から家督
1542年、前述の尼子氏の敗戦を受け、大内氏方に鞍替えする国
しかし、戦いは長期化し、翌年、本城常光らが再度大内氏方から尼
元就は殿(しんがり)を命じられ、やっとの思いで郡山城に帰還し
元就は1544年に三男である隆景を小早川家に、1547年には
目的としては、安芸国の北部に拠点を持つ吉川家には山陰地方への
後の元就の嫡孫である輝元を支えた毛利両川体制(吉川・小早川の
1546年頃には家督を嫡男である隆元に譲っている。
ちなみに、隆元の隆の字は、大内義隆より一字拝領したものである
1550年、毛利家中で最大勢力を誇った井上元兼とその一族を排
元兼をはじめとする井上一族は、長年にわたり横暴な振る舞いが目
ここでいう「国家」とは、自分の実力で切り取った領域を自分の力
この段階で毛利氏は戦国大名化を果たしたとも言える出来事である
1551年、先の尼子氏攻めの失敗で政治に興味を失っていた大内
この一連の事件を大寧寺の変ともいう。
余談だが、「変」と付く歴史上の事件は、それを実行した側が目的
例として、1565年の永禄の変は三好三人衆や松永久通(久秀の
この時、元就は晴賢に与同している。
これを機に、元就は安芸国や備後国に勢力を拡大していき、海運で
1555年、晴賢は大軍で厳島に上陸した。
それに対し、元就は瀬戸内海で活躍する村上水軍を味方に付けるこ
その背景には、晴賢が村上水軍から瀬戸内海における諸特権を奪っ
また、陶陣営に内部分裂が起きるように調略を仕掛けて混乱を生じ
更に、様々な調略を用いてもう一つの脅威である尼子氏を牽制し、
村上水軍の援助も受けて、悪天候の中出陣した毛利軍は夜の闇に紛
これを厳島の戦いという。
晴賢を破ったのちに周防・長門国に侵攻を開始、1557年には大
1562年からは尼子氏との戦いを開始、1566年には降伏させ
その後は嫡孫である輝元の後見もしている。
こうして、安芸国の小領主に過ぎなかった毛利氏は、一時は北九州
ここからは有名な故事や現在の広島県と元就の関係性を見ていきた
元就関連で最も有名と思われるのは、三本の矢の故事に関してであ
簡単に内容を説明すると、最晩年の元就は隆元・元春・隆景の三人
次に、矢を三本ずつ渡して一度に同じように折るように伝えるも、
そこから、三兄弟が力を合わせることの大切さを説いた、というも
ちなみに、広島県を本拠地とするプロサッカーチームであるサンフ
具体的には、サンはそのまま三、フレッチェはイタリア語で矢を意
この故事の元となったのは1557年に元就が三兄弟に宛てて記し
その内容を要約すると、三兄弟に対して、毛利家の存続を第一とし
これには、隆元の地位を明確にし、兄弟・一族の争いを避ける狙い
なぜ三子教訓状が三本の矢の逸話に変化したのかは不明だが、矢を
次に、先に陶晴賢を打ち破った厳島の戦いに関して紹介したが、こ
厳島神社の成り立ちとしては、593年に佐伯鞍職という人物が創
平安時代末期、平家一門の棟梁である平清盛が安芸守になったこと
平家一門が繁栄すると同時に厳島神社も栄え、平家の氏寺となった
その後、源氏など時の権力者から崇敬を集めるも、戦国時代には衰
そうした中、厳島の戦いに勝利した元就は厳島を支配下に置き、1
豊臣秀吉も参拝したことがあり、大経堂(現在の千畳閣)の造営を
1996年には世界遺産にも登録された。
現在の厳島神社があるのは、元就の保護があったからと言っても過
また、元就は、1997年にNHKの大河ドラマで取り上げられた
主演は元就の少年期と輝元の二役を演じた森田剛氏、元就の青年期
その際の題字は、実は元就の自筆書状から採用されており、非常に
オープニング映像の中で
題字 毛利元就
と紹介されている。
最後に、元就の鎧兜についてである。
色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)と呼ばれるもので、元就所
重厚な三鍬形の前立が特徴的である。
元就自身が戦国時代の前半から活動していたことも影響しているの
腹巻は南北朝時代に現れたものである。
南北朝時代になると、山城が多く築かれ、それを攻める際に馬から
まとめ
オーダーメイドの毛利元就の似顔子供大将は、職人が江戸時代からの伝統工芸の桐塑頭(とうそがしら)により丁寧に表現させていただきます。
毛利元就の似顔子供大将は、「木目込み人形」と「馬乗り大将」の2種類があります。
木目込み人形は、衣裳のデザインを布からお選びいただくことができます。
馬乗り大将は、「白色」と「黒色」の2種類をご用意しております。
木目込み人形も馬乗り大将もどちらも、台や屏風、お道具を組み合わせることができ、お子様のお名前を入れることもできます。
伝統工芸の桐塑頭で制作する職人も日本で僅か数人となってしまいましたが、いつまでも手作りのあたたかさを大切に伝えていきたいと思っております。
お気軽にお問い合わせくださいませ。
- 投稿日時:2021.6.27 15.37.20 / カテゴリー:五月人形
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