映水BLOG

2021.6.27 / 五月人形

お子様が毛利元就の五月人形に!職人が伝統工芸で作る子供大将

男の子の誕生を祝い、強くたくましく育ってほしいという家族の願いを込めて飾る五月人形。

5月5日の端午の節句には、素敵な五月人形を飾り、お子様の健やかな成長を見守りたいですね。

五月人形には、鎧飾りや兜飾りの他にもお人形を飾る「大将飾り」も人気を集めています。

大将飾りには、職人が江戸時代からの伝統技術でかわいいお子様のお顔に似せてつくる毛利元就のオーダーメイドの似顔子供大将があります。

こちらでは、毛利元就のかわいい大将飾りと立派な馬乗り大将の紹介と一緒に、毛利元就についても詳しく歴史解説をしています。

オーダーメイドの似顔子供大将

オーダーメイドの似顔子供大将のお顔は、職人がお客様から頂いたお写真を参考にさせていただき、江戸時代からの伝統工芸の桐塑頭(とうそがしら)により一つ一つ制作させていただきます。

伝統の桐塑頭は、桐の木の粉などの材料を使用し、貝殻の粉を膠(にかわ)で溶いた胡粉を10数回塗り重ね、目、鼻、口を彫刻して表現する世界に一つの作品となっております。

衣裳のデザインや、台、お屏風、お道具も色々と組み合わせて、素敵な五月人形をご提案いたします。

天然素材を使用した赤ちゃんにもやさしい五月人形です。

オーダーメイドの五月人形のことを詳しく知りたい方は「味岡人形 オーダーメイド五月人形」をご覧ください。

毛利元就の似顔子供大将


毛利元就 木目込人形 大将飾り 伝統工芸 桐塑頭

横幅:55センチ
奥行:33センチ
高さ:43.5センチ

お顔は、職人が伝統工芸の桐塑頭でお子様に似せて表現させていただきます。

お人形の衣装は、木目込み人形(きめこみにんぎょう)です。色々な種類の布の中からお好きな色をお選びいただき、お客様のご希望に合わせて制作させていただきます。

台やお屏風、お道具も色々な種類の中からお選びいただけます。

セットには、お子様のお名前を入れることもできます。

天然素材を使用した、やさしく、あたたかなお顔と重厚な三鍬形の前立が特徴的な毛利元就のお子様大将です。

職人がお届けする、世界に一つのかわいい五月人形です。

毛利元就の似顔馬乗り大将


毛利元就 馬乗り大将 「白」 伝統工芸 桐塑頭
(馬は、黒色もご用意しております)

横幅:約63センチ
奥行:約40センチ
高さ:約55センチ

毛利元就の馬乗り大将のお顔も、職人が伝統工芸によりお子様に似せて制作させていただきます。

馬乗り大将本体の大きさは、50センチ程となっております。

後ろのお屏風も色々な種類の中からお選びいただけます。

かわいいお子様が三鍬形の前立の兜と、かっこいい鎧を着た、毛利元就の馬乗り大将に変身です。

昔ながらの手づくりのお顔は、10年、20年と経つと味わいも出てきます。

末長く大切にしていただける世界に一つの五月人形です。

毛利元就の歴史解説

毛利元就(1497〜1571)

安芸国(現在の広島県)の国人領主である、毛利弘元の二男として誕生。

当時、出雲国(現在の島根県東部)月山富田城を拠点とし、山陰地方に勢力を伸ばす尼子氏と、周防・長門国(現在の山口県)から北九州を勢力下に置く大内氏という大勢力に挟まれ、毛利氏などの国人領主はどちらかの陣営に属する状態であった。

1523年、毛利氏は尼子氏に属していたが、当時の当主である甥の幸松丸の跡を継ぎ、元就が毛利家の家督を継いで本拠地である郡山城に入る。

1525年、毛利氏は尼子氏と断交、大内氏方となる。

大内氏の援助もあり、元就は着実に勢力を拡大し、大内氏方国衆連合の盟主となっていった。

1540年、そうした毛利氏を攻撃すべく、祖父尼子経久から家督を継いだ孫の晴久(当時は詮久)は大軍を擁して郡山城を攻めるも、大内氏からの援軍や元就の巧みな戦術で見事撃退している。

1542年、前述の尼子氏の敗戦を受け、大内氏方に鞍替えする国人領主が続出し、彼らの尼子氏を討つべし、という要望を受け、大内義隆は大軍を擁して尼子氏の本拠地である月山富田城を攻撃すべく遠征を開始。元就も従軍した。

しかし、戦いは長期化し、翌年、本城常光らが再度大内氏方から尼子氏方に鞍替えしたため、劣勢となり、退却することになった。
元就は殿(しんがり)を命じられ、やっとの思いで郡山城に帰還した。

元就は1544年に三男である隆景を小早川家に、1547年には二男である元春を吉川家に養子に送り込んだ。
目的としては、安芸国の北部に拠点を持つ吉川家には山陰地方への備えや攻略のため、同南部に拠点を持つ小早川家は水軍を持っていたため、これらを取り込むことにあった。
後の元就の嫡孫である輝元を支えた毛利両川体制(吉川・小早川の二つの「川」の字にちなむ)の原型が形作られた。

1546年頃には家督を嫡男である隆元に譲っている。
ちなみに、隆元の隆の字は、大内義隆より一字拝領したものである

1550年、毛利家中で最大勢力を誇った井上元兼とその一族を排除し、毛利氏の「国家」を成立させた。
元兼をはじめとする井上一族は、長年にわたり横暴な振る舞いが目立っていたからだという。
ここでいう「国家」とは、自分の実力で切り取った領域を自分の力で維持するという事実を象徴する言葉である。
この段階で毛利氏は戦国大名化を果たしたとも言える出来事である

1551年、先の尼子氏攻めの失敗で政治に興味を失っていた大内義隆に対し、不満を募らせた重臣である陶隆房は挙兵し、義隆を排除して大友氏から晴英を迎え、一字拝領して晴賢と改名。
この一連の事件を大寧寺の変ともいう。

余談だが、「変」と付く歴史上の事件は、それを実行した側が目的を達成した時に使われる。

例として、1565年の永禄の変は三好三人衆や松永久通(久秀の息子。通説では久秀が関わっていたとされるが、それは誤り)が13代将軍足利義輝を襲ったものであり、1582年の本能寺の変は明智光秀が織田信長を襲ったもので、どちらも襲った側が目的を達成している。

この時、元就は晴賢に与同している。
これを機に、元就は安芸国や備後国に勢力を拡大していき、海運で栄えた厳島を押さえようとしたことで、晴賢との関係が悪化し、1554年には晴賢と断交した。

1555年、晴賢は大軍で厳島に上陸した。
それに対し、元就は瀬戸内海で活躍する村上水軍を味方に付けることに成功した。
その背景には、晴賢が村上水軍から瀬戸内海における諸特権を奪ってしまっていたため、毛利氏に味方することとなったことが挙げられる。
また、陶陣営に内部分裂が起きるように調略を仕掛けて混乱を生じさせた。
更に、様々な調略を用いてもう一つの脅威である尼子氏を牽制し、背後を突かれないようにするなど、戦いの準備を整えていった。

村上水軍の援助も受けて、悪天候の中出陣した毛利軍は夜の闇に紛れて厳島に上陸、激しい暴風雨で毛利勢の攻撃を予想していなかった陶軍を攻撃し、狭い島に大軍で渡っていたことも災いし、大混乱に陥り、晴賢を敗退に追い込んだ。
これを厳島の戦いという。

晴賢を破ったのちに周防・長門国に侵攻を開始、1557年には大内義長(晴英から改名)を屈服させている。

1562年からは尼子氏との戦いを開始、1566年には降伏させた。

その後は嫡孫である輝元の後見もしている。

こうして、安芸国の小領主に過ぎなかった毛利氏は、一時は北九州や四国北部にも影響力を及ぼすなど、中国地方随一の戦国大名となり、元就の功績は計り知れない。

ここからは有名な故事や現在の広島県と元就の関係性を見ていきたい。

元就関連で最も有名と思われるのは、三本の矢の故事に関してである。

簡単に内容を説明すると、最晩年の元就は隆元・元春・隆景の三人の息子を呼び、まずそれぞれに矢を一本ずつ持たせて、折るように伝えると、三人とも簡単に折ってみせた。
次に、矢を三本ずつ渡して一度に同じように折るように伝えるも、三人とも折ることができなかった。
そこから、三兄弟が力を合わせることの大切さを説いた、というものである。

ちなみに、広島県を本拠地とするプロサッカーチームであるサンフレッチェ広島は、チーム名がこの三本の矢の故事から付けられた。
具体的には、サンはそのまま三、フレッチェはイタリア語で矢を意味する。

この故事の元となったのは1557年に元就が三兄弟に宛てて記した、「三子教訓状」であると考えられている。
その内容を要約すると、三兄弟に対して、毛利家の存続を第一とし、元春・隆景は他家を継いだが、毛利家を疎かにしてはいけない、三兄弟が仲違いすれば三人とも滅ぶことになる。結束すれば毛利家・吉川家・小早川家をそれぞれ治めることができるから、元春・隆景は隆元を助け、隆元は思うところがあっても元春・隆景を許し、そうすれば孫の代まで三家は栄えるだろう。それが三人の母への弔いになる、ということなどをを説いたものである。
これには、隆元の地位を明確にし、兄弟・一族の争いを避ける狙いがあった。
なぜ三子教訓状が三本の矢の逸話に変化したのかは不明だが、矢を持ち出していることから、戦国時代という時代背景に原因があるのかもしれない。

次に、先に陶晴賢を打ち破った厳島の戦いに関して紹介したが、ここからは広島県を代表する建造物である厳島神社と元就の関係性を見ていきたい。

厳島神社の成り立ちとしては、593年に佐伯鞍職という人物が創建した。
平安時代末期、平家一門の棟梁である平清盛が安芸守になったことにより、厳島神社を深く信仰し、武士として初めて太政大臣になった清盛は1168年頃に現在のような寝殿造の海上神殿を造営した
平家一門が繁栄すると同時に厳島神社も栄え、平家の氏寺となった
その後、源氏など時の権力者から崇敬を集めるも、戦国時代には衰退していた。
そうした中、厳島の戦いに勝利した元就は厳島を支配下に置き、1569年から厳島神社本殿の造営を開始し、1571年には遷宮を行なっている。
豊臣秀吉も参拝したことがあり、大経堂(現在の千畳閣)の造営を行なっている。
1996年には世界遺産にも登録された。
現在の厳島神社があるのは、元就の保護があったからと言っても過言ではない。

また、元就は、1997年にNHKの大河ドラマで取り上げられた
主演は元就の少年期と輝元の二役を演じた森田剛氏、元就の青年期以降は三代目中村橋之助氏である。
その際の題字は、実は元就の自筆書状から採用されており、非常に字が綺麗だったようである。
オープニング映像の中で

題字 毛利元就

と紹介されている。

最後に、元就の鎧兜についてである。
色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)と呼ばれるもので、元就所用と伝わる。
重厚な三鍬形の前立が特徴的である。
元就自身が戦国時代の前半から活動していたことも影響しているのか、時代的には室町時代末期のものであり、信長・秀吉が活動した安土・桃山時代の当世具足よりやや古いものであるが、色々威の糸の華麗さは見事で、色目の艶やかさに加えてウエストの絞られたシルエットが全体を引き締めており、バランスも非常によい腹巻の代表的遺品である。
腹巻は南北朝時代に現れたものである。
南北朝時代になると、山城が多く築かれ、それを攻める際に馬から降りて徒歩戦が主体になり、軽く動きやすい腹巻が重宝された。

まとめ

オーダーメイドの毛利元就の似顔子供大将は、職人が江戸時代からの伝統工芸の桐塑頭(とうそがしら)により丁寧に表現させていただきます。

毛利元就の似顔子供大将は、「木目込み人形」と「馬乗り大将」の2種類があります。

木目込み人形は、衣裳のデザインを布からお選びいただくことができます。

馬乗り大将は、「白色」と「黒色」の2種類をご用意しております。

木目込み人形も馬乗り大将もどちらも、台や屏風、お道具を組み合わせることができ、お子様のお名前を入れることもできます。

伝統工芸の桐塑頭で制作する職人も日本で僅か数人となってしまいましたが、いつまでも手作りのあたたかさを大切に伝えていきたいと思っております。

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